五月は2度も携帯をなくしてしまい、未だに見つかっていない。いい加減に前に使っていた機種に戻そうと、古い携帯をバッグに放り込んで外出したものの、それすらなくしてしまった…。無意識的に携帯を捨てたいという衝動が働いているのだろうか?
財布・鍵とともに外出時に欠かせないアイテムの一つとなっている携帯電話。なくしてから数日は、なにか落ち着かないような気持ちがしたが、2週間くらい経ってみると、意外と気にならなくなってくる。それどころか、こちらの都合にお構いなく呼び出される手段がなくなり、束縛から解き放たれたような晴れやかな気分にすらなる。タモリは携帯を持っていないという話を聞いたことがあるが、その気持ちがなんとなくわかった。携帯は人を呼び出すための道具であると同時に、人に呼び出されるための道具でもある。発信専用の携帯なら欲しいが。
最近読んだ清野栄一氏の著書『テクノフォビア』は、このような現代において十分に起こりうる、非常にリアリティのあるフィクション作品。自分が携帯を持っていない状態と照らし合わせ、自分もテクノフォビア(テクノロジー恐怖症)の一人であると客観視することができた。
私が紛失した携帯は、Felica(ICカード)を搭載しており、いわゆるお財布ケータイの機能も持っている。アドレス帳・スケジュール管理など、生活に必要なあらゆる機能が、一つの端末に集まっている。これは一見便利なようだが、ひとたび携帯を失うと、すべてを失ったかのような感覚に陥る。そして、その携帯が悪用されることを危惧する。端末にはセキュリティ機能が搭載されているものの、まったく安全とは言い切れない。あるいは、ネットでサービスを受けたりショッピングをするために、何度も個人情報を入力している。これらのネット上に溶け出した情報は、すべて取り返すことは不可能だ。このブログや、掲示板への書き込み、送受信したメールなど、個人の断片がネット上に溶け出していく。それらの情報をすべて回収し、なかったことにすることはできない。
この小説には、そういったネット上の個人情報を統合・データベース化することで、個人のニーズに的確にマッチした広告・サービスを自動的に選択するような「バベル」と呼ばれるシステムが登場する。GoogleのAdsenseやGmailの広告、Amazonのマイストアなどのマッチングシステムを延長したものといえる。バベルには、「いつどこのコンビニでなにを買ったか」など、あらゆる情報が一元的に蓄積されていく。GPS機能を使って、いつどこでなにをしていたかが、詳細に記録されるのだ。この小説の主人公は、自分の知らないうちにこのシステムに取り込まれ、システムに常に監視される。こうしたことは現段階で十分あり得ることだし、すでに行われていることなのかもしれない。
主人公は、そういった監視社会から抜け出そうとバリ島へ旅立つが、結局逃げ切れないことを知る。私も、家族・友人とは無縁の、ネットのない世界に身を置いてみたくてインドに行ったが、いたるところにネットカフェがあり、ついつい手を出してしまった。つまり逃げ切れなかったのである。世界全体が、「バベル」のような監視社会に向かっていることは間違いないだろう。監視される側の人間は、身を守る手段を持たず、下手をしたら監視されていることにすら気づくことができないのだ。




