無駄話

完全な雑文です。

鬱と死について

昨年・昨昨年と日記を読み返してもまったく例に漏れず、今の季節は必ず鬱になっています。

今年は特にひどく、退院後の毎日考えることと言えば「どう死ぬか」くらいのもんでした。あまりにひどいので、病院に行って相談して、それでも無理なら決行しようと思いました。

で、病院に行ったらやはり「鬱病」と診断され、薬をもらいました。その薬(SSRIや安定剤)を飲んだらとても穏やかな、数年ぶりに味わったような安らぎを得られたのね。あーそっかー無理しなくていいんだ、現代社会に適応するためには現代の医療などを最大限に活用すればいいんだよね、という当たり前のことに気がつきました。

父親が割と古きを重んじるタイプで、私もその影響から今の悩みなどに対してたとえば四書五経や、多くの仏典・東西の哲学書をよりどころとしてきました。それが無効果だったとはいいませんが、現代の問題に対しては現代の解決策が最も有効なのではないか、と考えるようになりました。そうした現代的な対処法も何もないところから出たわけでなく、古代からの積み重ねがあってこそですから。

ようするに脳内物質のバランス。こう唯物論的に括ってしまうと夢も希望もないんだが。大好きなロマンもない。でもそこから見いだしていきたい。

話が全くつながっていません。こんな文章センスで卒論終わらせることができるのか??そして何を書きたかったのか忘れました。思い出したらまた書きます。

素敵ライフについて

あ、思い出した。

明日のバーベキュウが楽しみです。それが終わったら宇宙集会!このように楽しい目標を設定していると毎日に張り合いが出ますよね。こういう楽しいイベントを増やしていきたい。その最後の楽しみが「死」でありたい。いやいや死ぬより、ポジティブに死んでいきたいよね。

いままでの考え方では、こちらから死を切望し歩み寄っていた*1のだが、いずれにせよ、どんなひとでも死へのカウントダウン・秒読みは始まっているわけで、私たちはそれを待つことしかできないわけです。

問題は、「自分が人生に何を期待しているか」ではなく「人生が自分に何を期待しているか」*2つまり、自分のために何かするのではなく、人のために何ができるか、ということです。独りよがりで満足できる人生を送っても他人の記憶に残らなければ何も残らない。

私は「他人」というキーワードを「運命*3」と置き換えて考えています。人間はあてにならない。頼りない生き物です。だから、大きな自然の流れや神の意志に忠実に生きていくのが一番シャンティ*4な生き方と考えます。インド旅行の際、多くのインド人はそうして生きているように思いました。日本人は人間をあてにしすぎて、視野が狭くなっている感じがします。自分を含め。

これが書きたかったこと。なんとなく思ってたことを文章にすると思考が客観化できて良い。

靜村について

最近靜村について考えることが多い。燈明堂で行った靜村祭以後、「祭」名義でパーティを行っていない。今年はいろんなパーティに遊びに行く/出演させてもらい充実してはいたが、肝心の靜村祭がおろそかになってしまった。約束の土地で行った靜村祭は4月の「夜桜乱舞」が最後である。こんなんでよいのか?!

すでに靜村祭自体の存在に疑問さえある状態だ。靜村祭がなくても、それぞれ村民は発表できる場を持っているし、それぞれ忙しい日常を送っている。もう、あの奇跡的な「靜村現象」を体験することはできないのだろうか。それは靜村祭を開催してみなければ、蓋を開けてみなければわからないことだ。わからないことを頭の中だけでグルグルやっていても意味がない。だから11/4に「靜村秋祭」をやることにする!

*1:実際にはそれしか選択肢がなかった

*2:フランクルの言葉

*3:神

*4:平安

Related posts

ɂقuO yuO yp[eB[ECxgEtFX ɂقuO ʐ^uO ɂقuO lbguO lbgT[rX

Matsukin の紹介

向精神電子音楽研究家。
-->
カテゴリー: memo   タグ:   この投稿のパーマリンク